「インドネシアと日本 ~50年のパートナーシップ」
インドネシア共和国地方代表議会議長・インドネシア日本友好協会会長
ギナンジャール・カルタサスミタ氏


ギナンジャール氏

ギナンジャール・カルタサスミタ氏は、国家官房海外技術協力庁二国間関係局長(1972-1976)、国内産物推進庁副大臣(1983-)、投資庁長官(1985-)、鉱業エネルギー大臣(1988-1993)、国家開発企画庁長官(1993-1998年5月)、経済・金融・産業担当調整大臣(1998年3月-1999)を歴任し、その間、日本の経済協力に深く関わり、インドネシア・日本関係の架け橋となった。現在、インドネシア共和国地方代表議会議長を務める傍ら、インドネシア日本友好協会会長を務めている。

1980年代から1999年までのおよそ20年間にわたる私の経験から感じることは、インドネシアに対する日本のODAがインドネシアの開発に多大な貢献をしているということである。多くの国に対する日本の経済協力の中で、インドネシアに対するものが最も大きく、また、インドネシアにとっても日本は、最大の支援国である。インドネシアに現存するインフラの大部分はかつて日本の支援を受けて整備された。

インドネシアの今日の発展は、日本のインドネシアに対する支援と切り離して語ることはできない。1993年、インドネシアはその他の東アジア諸国(インドネシア、マレーシア、タイ、シンガポール、韓国、香港)とともにアジアのトラと呼ばれ、アジアの奇跡を起こした。これは日本からの大きな支援により可能になったといえる。しかし、アジア経済危機のあおりを受けてインドネシア経済は崩壊、インドネシアの経済構造は思ったほどの強さを持たなくなった。

私が国家開発企画庁(BAPPENAS)長官をしていたとき、日本の援助が道路、発電所などの経済インフラばかりでなく、学校や病院などの社会インフラにも向けられることの必要性を感じ、そのための努力をした。例えば、日本の支援により、バンドンのパジャジャラン大学にあるハッサンサディキン(Hassan Sadikin)病院が建設された。多くの大学・高等教育機関に対する支援が行われ、また多くのインドネシア人学生が日本の大学の修士・博士課程に留学している。日本の経済協力の特徴の一つは、経済インフラから社会インフラまで包括的に支援を行っている点である。

日本は経済発展を支援しただけでなく、社会問題や環境問題に対する配慮も行ってきた。リアウで水力発電所建設プロジェクトを日本が支援した際の例を紹介したい。当時、住民が立退きを拒んだため、同プロジェクトはストップした。そこで、私は日本政府と協力して当地住民に対し、移住すれば今よりもよい生活ができ、古代からのものも保存できると、十分に話し合いを行った。こうした働きかけが効を奏した。また私が鉱業エネルギー大臣を務めていた頃から、日本は環境に対する配慮も行うようになった。

インドネシアと日本の経済関係について言えば、日本からのODAがインドネシア経済の原動力となり、また、支えとなってきた。日本のODAがインドネシアのインフラ整備や人材育成を支え、投資環境改善により日本の投資が入ってきた。このような経過を通じてインドネシアと日本の経済関係が築かれた。インドネシアからの輸出品の多くは加工品で、それを生産しているのは日本とインドネシアの合弁企業である。インドネシアから輸出される電子機器の多くは、日系企業によって生産され、日本へと輸出されている。 これも、ブカシやカラワンの工業団地のような、日本の投資で建設されたインフラ(産業基盤)があったおかげである。このように、インドネシアと日本の経済関係は、日本のODAによって支えられている面が非常に大きい。

インドネシアと日本は共通の利益を有し、ともに民主主義国家であり、ともに市場経済に理解を示す国家である。将来に向け、戦略的にも、日本はインドネシアにとって相応しいパートナーである。日本は、インドネシアが能力を高めるよう人材育成への支援を強化していくべきである。なぜなら、経済発展は技術と人材に支えられているからである。


Topik
「インドネシアと日本 ~50年のパートナーシップ」
インドネシア共和国地方代表議会議長・インドネシア日本友好協会会長
ギナンジャール・カルタサスミタ氏