退役警察軍准将、スリ・クスマティー氏 (スリさん)
元青年海外協力隊隊員 (柔道教師、派遣国インドネシア共和国)、安斎俊哉氏 (安斎さん)
インドネシアの治安責任は、過去30年余りにわたって国軍(陸・海・空・警察)が担ってきたが、スハルト政権の終焉後の民主化の進展を受け、2000年8月の国民協議会の決定により国家警察は国軍から正式に分離独立し、国内治安の責任を委ねられた。市民の安全を確保する上で国家警察の役割は従来に増して大きくなっているが、分離独立したばかりの国家警察にとって、いかにして国内治安を向上させ、かつ、民主的な警察サービスを提供するかが大きな課題となっている。
このような状況の下、国家警察が「市民警察」として国民の信頼を得て、インドネシアの治安を確保していくことは、同国民の安全な生活の確保はもとより、政治的安定や投資の促進による経済発展にとっても極めて重要な課題であることから、インドネシア政府は、国家警察の組織・制度・人員の改革への支援を我が国に要請してきた。同要請に応え、我が国は2001年より「インドネシア国家警察改革支援プログラム」を実施してきている。
2005年10月には、インドネシア国家警察長官は警察改革の柱として、地域に根ざした市民警察活動実現の基本戦略である「POLMAS」(インドネシア国家警察の Community Policing に係る取組み)を採用し、 国家警察の各単位においてPOLMASの導入を指示している。
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スリ・クスマティー氏 (左) と安斎俊哉氏 (右) |
インドネシアの警察組織を改革するためインドネシア国家警察(POLRI)と日本の警察庁(NPA)とは協力関係にある。最近このことを多くの人たちが知るようになってきた。しかしその中で、スリさんと安齋さんの存在を知る人は多くない。国家警察をインドネシアの人々に心から愛され、信頼されるようにするという共通の目的を達成し、両国間に良好な関係を構築、維持するため大事な役割を果たしている二人。一人は退役警察軍准将、もう一人は元柔道教師。二人から聞いた話は今から20年前に遡る。
すべてはこのようにして始まった
ことの起こりは、インドネシアの婦人警察官、(退役)准将であり、経営学博士でもある、スリ・クスマリヤティー女史(以後、スリさんと呼ぶことにする)が、国家警察の国際刑事警察機構部門(国際警察)に任命されたことに始まる。スリさんはこのポストに13年間勤務し、副部長にもなったが、その間、日本を含む他国の警察機構との協力関係を発展させることに尽力した。当時(1980年代)、インドネシアの警察機構に対する日本政府からの特別な支援はなかった。それは当時のインドネシア国家警察が国軍(ABRI)の一部であり、日本の政府開発援助(ODA)の方針として、軍に対する援助を認めていなかったからである。JICAの独占インタビューに答え、スリさんは次のように語った。「当時の日本の技術援助は、まだ、JICAによる日本での”グループ・トレーニング”の範囲を超えず、麻薬の管理、犯罪捜査等を中心としたものに限定されていました。私は、ジャカルタの日本大使館(特に警察関連書記官)、および、JICA事務所と定期的な話し合いの場を持ち、協力の可能性、特にインドネシアの警察官の能力向上についての協力が得られないものか検討していました。」
そして、この努力は、スリさんがJICAに要請していた、柔道の教官派遣が承認されたことによって報われることになる。
1988年に最初の柔道教官としてインドネシアに派遣されたのが安斎俊哉氏 (以下、安斎さん) であった。安斎さんは、また、JICAがインドネシアに対して計画していた、下級専門家プログラム (JOCV) のメンバーの一人でもあった。安斎さんは、スリさんの手配により、南ジャカルタの婦人警察官学校に赴任することになった。そして、これが、この二人の長い友人関係の始まりであった。
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スリ・クスマティー氏 |
仕事上の関係から、個人的関係へ
安斎さんは、建築学士の学位を持っているが、インドネシアに派遣された任期中、日本の現代武道を婦人警察官を含め、警察関係者、一般柔道愛好者、国を代表する選手たちにも教えた。安斎さんとその生徒たちのたゆまぬ鍛錬の結果、何人かがSEA(東南アジア)ゲーム、さらには、バルセロナ・オリンピックにも出場できるようになり、安斎さんのキャリアーの中でも特筆に値する。特にSEAゲームでは、柔道選手たちはインドネシアに多くの金メダルをもたらした。
最初にこの国に降り立った時、安斎さんは生涯の伴侶をこの地で見つけることになろうなどとは夢にも思っていなかった。伴侶は、警察学校での安斎さんの同僚であり、柔道の教官仲間である。二人は最初に会ってから4年後に結ばれた。二人の結婚式は、安斎さんがシニア隊員(JOCV)として再度派遣された後に、インドネシアで行われたが、この結婚の成功のためにスリさんの果たした役割は大きい。「スリさんは、私たちにとってお母さんのような人です。特に、私の妻の両親は、私たちが結婚した時には既に亡くなっていたので、スリさんとそのご主人が、私たちにとって、両親になりました」と安斎さんは語る。現在、安斎さんは、このスンダ人の奥様と4人の子供と一緒にジャカルタで暮らし、警察プロジェクトで活躍している。
国軍の一部としての国家警察
スリさんは何度か日本を訪問する機会に恵まれ、その間インドネシアの警察官と日本の警察官との間には、組織、勤労意欲、考え方の点で大きな隔たりがあることに気付いた。スリさんは、日本の警察官は非常に献身的であり、職務に対する責任感が強いと見ていた。「最も重要なことは、日本の警察官は、人々がそのサービスを必要としている時に誠心誠意人々を助け、人々に奉仕するその姿勢です」とスリさんは説明する。そして、このことこそインドネシアの警察が日本から学ばなければならないとだとスリさんは考える。スリさんが1963年に最初に警察科学大学(PTIK)に入学した時は、インドネシア警察はまだ内務省(MOHA)の管轄下にあり、警察官は国家公務員であった。しかし、1966年に至り、警察は、他の三軍(陸軍、海軍、空軍)とともにABRI(国軍)の一部となった。それ以降、警察は軍隊と同じ特性と位置を占めるようになった。またその教育システムも軍国調になっていった。他の国々の警察制度とその活動を学び、それらとの間に協力関係を持っていたスリさんは次のように結論付けている。「法律の施行に当たり、警察は暴力的な傾向を伴う軍隊的なアプローチを採りました。その結果、インドネシアの大衆は警察を恐れるようになり、問題があった場合、警察に支援を求めるより、それらを自分たちだけの問題として抱え込んでしまうようになってしまったのです。」
大型の協力
インドネシア国家警察を支援するための、日本とインドネシア間の協力を拡大する考えは、当時のインドネシア警察庁長官が1998年に日本を訪問した時に初めて表明された。当時、インドネシア警察が軍隊から分離するだろうという噂が既に広まっていた。当時スリさんは既に国家警察から引退し、安全対策アドバイザーとしてJICAのインドネシア事務所で働いていたが、長官は日本との協力拡大のアイデアをスリさんと共有した。そこで、スリさんは、インドネシアの国際刑事警察機構(INTERPOL)と調整し、正式な要請の形に作り上げた。この要請書はインドネシア警察庁長官から日本大使館を経由して日本政府に提出され、日本の外務省に承認された。その後、協力内容の詳細を詰めるために山﨑裕人さんをリーダーとする専門家チームがインドネシアに派遣され、インドネシア国家警察の本部(Mabes POLRI)および地方警察の複数の箇所を訪ねどのような協力が必要か調査した。安斎さんは、「山崎さんは、1980年代当時、日本大使館付き一等書記官の任にあった頃から、インドネシア国家警察を支援したい、という抱負を持っていた」と語っている。
文民警察を創出するための、地域警備システム(POLMAS)の採用
2001年になり、インドネシア国家警察は、正式に国軍から分離することになった。その直後に、”インドネシア警察の改革支援プログラム“が開始され、山﨑さんが、日本の警察官としては最初の、‘インドネシア警察支援プログラム’の責任者兼インドネシア警察庁長官のアドバイザーとして派遣された。このプログラムには、パイロット・プロジェクトとして、2002年8月1日に開始された大衆の信頼を得ることのできる「市民警察」を創りだすためのプロジェクトをブカシ警察署で行うことが含まれた。本プロジェクトは、日本側として山﨑さんが総括的協力をし、バリ島観光警察の整備を含めた警察管理全般、認識技術、命令および連絡管理システムなどの分野を担当する数人の日本人専門家が、安斎さんと共にインドネシア側を協力することになった。プロジェクトは、また、いろいろなレベルのインドネシア警察官に、日本を訪問することで、日本の警察機構とその「地域警備システム」を学ぶ機会を与えた。このような日本訪問がインドネシア国家警察を刺激し、インドネシア国家警察は2005年10月に、日本の地域警備システムをインドネシアに導入し、”POLMAS“と呼ばれる独自の地域警備システムを採用した。このシステムでは、警察は民衆にその門戸を開き、地域住民に対して、その地域の平和と安定を実現するため、警察のパートナーとしての協力を呼びかけている。その中で、プロジェクトは、日本の「交番」システムを採用したBKPM(警察と地域社会の連携の場所)と呼ばれる「交番」の設立を支援。その一方で、インドネシア警察は独自で日本の「駐在所」の概念を採用した”Balai POLMAS”を構築した。これらの施設はいずれも、ブカシ、および、その管轄地域で見ることができる。ブカシには、また日本にもまだない、婦人警官だけの「交番」“BKPM Mekar Sari(花の交番)”と呼ばれるものもできた。ブカシ警察では、これらの結果、著しい能力の改善がみられ、他の地域の警察官がブカシに学びにやってくるようになり、またブカシの警察官が、他の地域に教えに行くようにもなった。
調整役としての人生
5年を経た警察協力は、2007年から2012年まで、さらに5年間延長された。安斎さんは、同プログラムの調整役として再度任命された。この2008年は、安斎さんが、最初にインドネシアで働き始めてから20年目になる。この地で過ごしてきた中で、何が一番忘れられないことだったのか、と訊ねられ、安斎さんは、それは2002年10月のバリの爆弾事件だ、と答えている。「あの爆弾事件が起きた時、私はラグビーの試合のために被災地にいました。Sari Clubでは6人の外国人の友達がなくなりました」。当時の捜査を支援するよう、日本人専門家の協力が要請されていたので、安斎さんもその地におよそ2週間滞在し、被害者たちを確認するため瓦礫の中を探しまわった。「焼け跡の悪臭と死臭を今でも忘れることができません。一番辛かったのは,友人の身元のわかるものを見つけ、それを国の家族に返すことでした。」安斎さんは、辛そうに当時をふり返った。あれ以来、安斎さんはバリに行くたびに ”爆発のあった地点” を訪れることにしている。
人間としてこの20年間に変わったと思うか、と訊ねられ、横浜(神奈川県)出身の48歳の彼は、「そんなに変わったとは思わない」と答える。この5年間に、安斎さんが気付きはじめたことは、職業人として、あるいは、一個人としてに関係なく、他の人たちとの関係作りがいかに大切か、ということだと言う。
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安斎俊哉氏 |
インドネシア国家警察:これから
AC・ニールセンの調査によると、インドネシア人が警察に対して持つイメージ、そして警察の職業的な技量が大きく変わり向上したとされる。しかし、これは、いまだにブカシ地域に限られたことなのである。一方、KOMPAS紙が2008年7月1日に行った調査では、回答者の60.5%が、インドネシア国家警察のイメージは依然として悪く、その職業的意識が低いと感じている。その理由の多くは、依然として多くの警察官が、何らかの許可(運転許可証など)を与える際に取っている非合法な賦課金などによる。
日本の警察(NPA)と比較して、インドネシア国家警察は非常に立ち遅れていると、スリさんは見ている。彼女は次のように説明する。「日本の警察でさえ、今日の形になるには30年を要しています。インドネシア国家警察にはまだまだ多くの至らないところがあり、プロに徹した、奉仕の精神に基づいた、責任感のある、誠実な、そして効果的な警察になるにはまだ多くの時がかかるでしょう。しかし、悪い印象は漸次改善されなければなりません。インドネシア国家警察には多くの課題があります。例えそれが良い方向に向かっていたとしても、一つか二つの些細な悪例が警察への印象を台無しにます。インドネシアはとても広い国ですから、国家警察は、また、広大な地域を管轄しなければなりません。その上、警察官の低い所得という問題にも取組まなければなりません。日本では、警察官は所得についてあれこれ悩むことはありません。だから職務に集中することができるとも言えます。しかし、この国では、警察官の給料はほんの1週間で尽きてしまいます。このことが、いまだに、あちこちで非合法な賦課金が見られる原因にもなっていると考えます。」
安斎さんは、国家警察、少なくともブカシの警察は良い方向に向かっていることに同意する。しかし、それは完全なものではなく、全関係者が切磋琢磨し続けなければならない。「非合法な賦課金は、ここではまだある種の文化のようなものだと思います。問題は、一般市民もまた何かを早く解決したい時に、警察官にお金をあげることをなんとも思っていないことです。ですから、双方、つまり、一般市民と警察でより良い文化を育成することが必要なのではないでしょうか。これには教育が重要な役割をします。」と語る。
インドネシア国家警察の将来に対する希望は、という問いに対し、スリさんは、次のように答える。「国家警察は、一般市民から愛されなければなりません。また、それは独り立ちしていなければなりません。日本の援助を当てにしていてはいけないのです。それらが達成されるかどうかは、はすべて、警察庁長官を始め、すべての警察官の責務にかかっています。独り立ちするための基礎と支援は既に与えられています。独りで歩き出すことを学ばねばなりません。JICAのトレーニングを受講した同窓生たちは、学んだことを忘れず、将来のリーダーとして、それらを実践の場に応用することが大切です。」
安斎さんは、ISI(桜インドネシア会)という日本で研修した研修員の同窓会を支援しているが、「彼らがJICAプロジェクトの普及に協力することで、結果として国家警察が技術的に改善され、また彼等自身がプロとして向上することを希望している」と言う。
お二人からの「まとめ」の言葉
インドネシア国家警察が考えなければならない事柄として、スリさんが感じていることがある。それは、この目的のために献身してきた、すべての日本人一人一人に対する感謝の気持ちを表すことである。「当時の日本の警察の次長であった吉村さんは、2007年7月にジャカルタを訪問した際、警察協力に貢献した人として、“Bhayangkara Utama”を叙勲されています。インドネシア国家警察は、この協力の運用、発展に携わってきた日本の警察官や個人、山﨑裕人さん、植松信一さん、竹内直人さん、安斎俊哉さん等に対しても、警察賞を授与することを考えるべきだと思います」とスリさんは強調する。
安斎さんのまとめの言葉は、スリさんに捧げられたものであった。「私はスリさんの息子として、スリさんが末永く、楽しい人生を送られることを願うものです。」
(了)