
今年、日本とインドネシアは外交関係樹立65周年を迎えた。工業団地を中心に日系企業が進出し、多くの在留邦人が暮らしている西ジャワ州では、インドネシア経済の持続可能な発展を後押しするために、パティンバン港開発事業やレゴックナンカ廃棄物発電事業などのプロジェクトが両国間で進められている。今回は、現在進行形で進んでいる両国の協力を振り返ると、実は、西ジャワ州が協力の原点になっているということを紹介したい。
首都ジャカルタや人気観光地バリと並んで日本人になじみがあるインドネシアの都市を挙げると、西ジャワ州の州都バンドンを外すことはできない。と言うのも、1955年のアジア・アフリカ会議の開催都市として、バンドンの名は日本の学校で使用されている現代史の教科書に必ず登場するのだ。思い起こせば、私が最初に日本とインドネシアの関係について考えたのは、「バンドン会議」と称されるアジア・アフリカ会議に関する授業だったと記憶している。
1955年当時、日本とインドネシアの間には国交が樹立されていなかったにもかかわらず、開催国インドネシアが日本をアジア・アフリカ会議に招待したことは、日本の国際社会復帰に向けた契機となった。バンドン会議の翌年、日本は国際連合に加盟し、さらに1958年に両国は国交を樹立した。今年で65周年を迎えた日本とインドネシアの関係を振り返ると、バンドン会議がひとつの原点であったと言える。
昨年、バンドンを含む西ジャワ州を公式訪問した際、アジア・アフリカ会議博物館を訪れた。博物館には、会議の開催に至るまでの経緯とその成果について詳しく展示されており、会議の成功に向けたインドネシアの意気込みを感じることができた。昨年のG20首脳会合において発揮されたインドネシアの議長国としてのリーダーシップは、バンドン会議から脈々と受け継がれてきたものなのかもしれない。今年、インドネシアはASEAN議長国を務めており、そのリーダーシップにも期待している。
もちろん、バンドンが有名なのはバンドン会議のためだけではない。バンドンは、食の町として知られ、「美味しいものとすごく美味しいものの二つしかない」と言われていることや、ファッションや音楽などトレンドセッターの街であることは、多くの日本人に知られている。また、エリック・トヒル国営企業大臣から教えてもらったが、バンドン産の高級靴は日本の高級百貨店でも人気である。
西ジャワ州には、これらのほかにも両国の友好関係を考える上で重要な場所がある。
現在、インドネシアにおける日本語学習者数は約71万人で、中国に次ぐ世界第2位である。日本語に興味を持ち、日本語を学習するインドネシアの人々は、まさに両国の架け橋だ。
昨年バンドンで元日本留学生の方々と面会した際、インドネシアで最初の日本語学科は、1963年にパジャジャラン大学に設立されたと聞いた。国交樹立からわずか5年後である。パジャジャラン大学はインドネシアにおける日本語学科の草分け的存在とされ、卒業生はインドネシア各地の日本語学科で教授、教員として活躍し、両国の架け橋となる人材を輩出してきた。同学科の活動をサポートするため、1987年には日本語研究センターの建物がJICAの協力で建設された。現パジャジャラン大学学長も元日本留学生である。さらに、パジャジャラン大学日本語センターでは、バンドン浜松文化祭が開催され、両国の市民交流の場となってきた。
現在、日本語を学んだ多くのインドネシア人が日本へ行き、日本で得た知識・経験を持ち帰って、インドネシアの発展に貢献している。その軌跡をたどると、パジャジャラン大学日本語学科が原点になっている。
アジア・アフリカ会議やパジャジャラン大学日本語学科に代表されるような、両国の先人達の尽力が基礎となって、本年、国交樹立65周年を迎えることができた。新型コロナが収まった今、これからもインドネシア各地を訪問し、それぞれの土地の文化や歴史を直接感じるとともに、両国のこれまでの協力の道のりについて振り返り、将来の協力につなげていきたい。
金杉憲治
駐インドネシア大使